23 瞼閉じればそこに
写真評論家の竹内万里子さんは美術手帖の中の「写真という生に向かって」の中で写真家の志賀理江子さんにについて「彼女にとって問題なのは、この死すべき肉体=現実を撃ち(shoot)、自ら撃たれ、写真という生へそれを捧げる行為、儀式そのものである」と書いていた。
儀式という言葉がわたしをとらえた。この間、わたしの制作方法(写真を土に埋めるという行為)はもはや儀式のようにみえる、と作品を見た人に言われたからだ。
自分自身ではまったくそんな感覚はないのだが、例えば毎日同じ時間に写真を土に埋める、などしたらもっと儀式感が増す気がする。
自分の制作の時間帯はほぼ決まっているが、そのときの季節やその日の天気にも左右される。まだ自分の中では儀式感は強くないし儀式と意識して制作したらどうなるのだろう?という段階。
最近はIMAに掲載されていた志賀理江子さんのインタビューを読んで驚いた。
春というテーマに興味を持ったのは、春に躁になるという人に会ったことがきっかけらしいのだが、躁のリサーチについてのインタビューに書かれていたことにびっくりした。
ーはい。木村敏、という精神科医の著書には、躁状態において意識が解体されるような症状の発作について書いてあり、それは「癲癇(かんしゃく)」と言うのですが、その時間の表現を彼は、「永遠の現在」と呼んでいるんです。「永遠の現在」ということは、過去と未来がない、ということですよね。常に現在だけを生きている。で、そのことに関しては、写真がまさしくそうなんじゃないかと。
この中で出ている永遠の現在という言葉、昨年の秋にお花屋さんで開催されたわたしと田口愛子さんの二人展のタイトルだったのだ。びっくり!!!なんせ、このタイトルは企画してくれたArt Bridgeの方々が決めたものだったからだ。聞いてみたら、オスカーベッカーが美術に対して似たようなことを言っていてそこからEternal Present 永遠の現在となったそう。もちろんあとはわたしたちのコンセプトも相まって。
あとこのインタビューの中に出てきた、春の訪れを告げる雪解けについての文がとてもよかった。すっかり忘れていた小さい頃に嗅いだ匂いと気持ちが自分の中に蘇ってきた。わたしの生まれ育ったところは一応県庁所在地だがまあまあ山の中に位置するので、キツネなどの野生動物もよく見る。冬に雪が降って積もったのが、春に近づくと溶けてくるのだが、その時期になるときまって不穏な匂いがしてくるのだ。それはあまり嗅いだことのない匂いなのに、なにかが腐っていく匂いだ、と子供ながらに思い野生動物の死骸を想像させた。(この頃、小学校の図書室にあった宮崎学さんの「死を食べる」という本に惹かれ何度も何度も読んでいたせいもあると思うが。)実際に見えるわけではないので、春先にあの匂いがするたび想像して怖くなっていたが、ちゃんとまたこの季節がきたんだ、という不思議な気持ちもあった。思い返したら、やっぱり小さいころから興味のあることは変わっていなかったんだなあ。そして死を食べる、また読みたくなったので買おう。
https://imaonline.jp/articles/archive/20190329lieko-shiga/#page-3