24 そしてまた枯れ葉は溜まる

24 そしてまた枯れ葉は溜まる

わたしの作品や思想を通して思ったことや感じたことを、明確な文字に表して伝えてくれる友達がいる。(たくさん連絡をとりあっていなくとも、彼女が何かを感じたり考えたりしたときにはそれを必ずシェアしてくれる)

それは、わたしの立っている道に溜まった枯れ葉を一気に飛ばしてくれる風のようだ、とメッセージをもらうたびに思う。作品に対しての批評ではなく、(もちろん批評も有り難い。それを伝えてくれる人は多々いるのだが。)彼女の日常にわたしの考えるコンセプトを当てはめ、実際に心から感じて、そこで何を思ったか、を教えてくれる。

”この世界では全てのものが常に変化しているが、その変化には恐怖と喜びが付随する。そして彼女は「一過性」とそれによって変化する人の心理的側面に興味を持ち制作をしている。何かを永久に保存したいと思う気持ちが人の心の中に現れるときがある。しかし、その一方で全ての生き物はいつか土に還り、全てが束の間だ。”
(小野久留美のウェブサイトより抜粋)

言うてますけど、やはり一番最初は自分のなかでの気付きであったので、他の人はどうなん?という気持ちは常にあり。そうは思いつつ、いや、絶対、人間だれしも一度は感じたことある気持ちだ!そして意外とないがしろにしてる人多いけど、人格形成や全てにおいて繋がる重要なことなのだ!という謎の自信もあり。

なので、彼女が保存や不変性の観点について考え、見つめ、それを共有してくれることは本当に有り難い。

物理的な実体の終わりをもたらす変化が”失う”とイコールではない、ということを彼女の体験したことも交えて書いてくれた。
そのことは昨日、蚕の死期が近いことをブログに書いたときに思い出したこととも繋がった。それは、わたしの好きな漫画の中に出てくるお話しの一部なのだけど、飼っていた犬が死んじゃったときも、どうしてママは平気でいられるの?(死んでしまって何日かたっても、ママやパパはどうして(表面上は)今まで通りの生活を送っていられるの?!)と子供が泣きながら言う部分。これを思い出して、わたしもお蚕様が死んでしまっても今まで通り日常を送るのだと思うし、(いままでも家族の猫や犬が天国に行ってしまっても日常を送ってきた)こんなに愛着があるのにどうして普通の日常を送れるのだろう、と疑問に思っていた。
そして脳が自然に変化と失うっていう定義を切り離した、という彼女の言葉がしっくりきた。

人間は自分自身を守るためにそうできているのかもしれない。私たちはずいぶん複雑で、野蛮で、愛くるしい生き物だ。